2010年12月19日

【同窓会記念会誌】 宅八郎氏 アンケート全文特別掲載

同窓会懇親会「波濤に集う」の記念会誌が完成いたしましたびっくり
当日来られる方、楽しみにしていてくださいねニコニコ

この記念会誌には同級生の矢野守啓さん(宅八郎さん)が取材協力してくださいましたキラキラ
誌面にはスペースの都合上一部しか掲載出来なかったため、全文ママ、ブログにて紹介させて頂きます。
矢野君の南高時代の奮闘ぶりから近況までがよくわかるようです♪
ありがとうハート矢野君
益々のご活躍を16期生みんなで応援しています。

鉛筆 アンケートより

1.高校時代のエピソード
ボクはこの20年ほど「オタク評論家」という肩書きのもとに「宅八郎」というペンネームで仕事をしています。まさに「オタク第一世代」と言えるのがボクたちの世代です。例を少し挙げてみます。

オタクというキーワードがクローズアップされたのは1989年のことですが、それは最もマイナスの形で社会に認知されました。連続幼女誘拐殺害事件の犯人・宮崎勤(死刑執行)が、1962年8月21日生まれだったのです(ボクは19日うまれですから、たった二日違いです)。犯罪は許されるものではありませんが、「世代」は認識せざるをえません。

また、オタク宗教と位置づけられる論文や論考が発表されているオウム真理教の元幹部・上祐史浩が1962年12月17日生まれです。

なお、ボクは彼とオタク対談しているばかりでなく、地下鉄サリン事件の5年前の1990年に麻原彰晃(死刑確定)にもインタビューをしています。

このように、オタク第1世代(ゼロ世代は10歳年上の加藤直之先輩でしょう)と言えるボクは高校時代にはきわめて行動的な「オタクとしての原点」とも言える姿を見せていたと思います。

例をいくつか挙げてみましょう。

浜松南高校内では漫画研究会の会長として、将来こうしたサブカルチャーが拡散していくはずだと考えて、漫画だけではなく、アニメや怪獣などを含む活動を展開した記憶があります。一つにはボクが問題児だったことの出発点とも言えますが、生徒会や映画研究会との対立や交渉も今となっては微笑ましい愉快な記憶です。これは漫画研究会で制作したフィルムの文化祭での上映権限をめぐるものでした。現在に至るまでのボクのパンクな生き方、反体制のメンタリティから来るトラブル史の第1ページと言えるでしょう(ただし、今では思い出ですし、それぞれのお名前さえ失念しています)。

そのフィルムは後に東京で発表し、特撮(特殊撮影)技術などは高い評価を得ることになったのは余談です。

また、当時の話として、高校の外での活動として、オタクサークルを主催していました。同級生の皆さん全員はご存知ないと思いますので、記してみます。アニメの研究に深くはまっていったボクは、どうしてもベルギーとチェコのアニメを見たくなって、当時それぞれの大使館に電話をかけています。「地方の高校生なのですが、そちらのお国の文化を深く知りたいので、どうかフィルムのお貸し出しを願えないでしょうか」という交渉です。結果、それぞれの大使館は「うれしく思います」と浜松までフィルムを送っていただけました。その上映会も浜松市内で行いましたね。

また、現在では浜松のどのあたりにあるのか無いのか良く分からないのですが、当時有楽街(でしたっけ? 確か浜松でコム・デ・ギャルソンを扱っていた洋品店のあった通り)にあった、映画館「浜松東映」を一日貸しきって、自分の好きなアニメのみの自主上映イベントを組んだこともありました。映画館貸し切りですから、結果的には大赤字になって、高校生の身分では支払うことが出来ず、親に肩代わりしてもらったような人間がボクでした(苦笑)。

現在までに仕事上、立場上、あまりに多くの人と接することになってしまったボクは、申し訳ないことに、人物についての古い記憶を失っております。当時の同級生たちのお名前を大半忘れてしまっているのですが、どうかお許しください。当時、同級生にはアイドルにハマっている人もいましたから、そうした女性アイドル中心の会話も楽しかったです。ただ、高校生当時は同性愛者と誤解されてしまうことを恐れて、誰にも言っていなかったことがあります(ただし、ヘテロ=ノンケのボクでも、同性愛者に偏見や差別意識は無く、現在ではゲイの友人知人も多くいます)。それはじつはアイドルと言っても、ボクは女性アイドルよりも、むしろ男性アイドルが大好きで、たのきんトリオ全盛のジャニーズ事務所に書類を送ったりしていた事実です(笑い)!

それから、現在は実家も引っ越してしまっていますが、高校時代のボクは北島町という所に住んでいました(天竜中学校学区)。そこから浜松南高まではけっこうな距離があって、当初バス通学をしていたんです。しかし、オタクをやるにはお金がかかってしまうんですね。そこで親からもらった定期券代ををオタク資金に充当、頑張って遠い自転車通学した思い出も感慨深いですね。その他、高校生時代には東京の代理店さんとコンタクトを取って、テレビマーケティングのアルバイトなどもしていました。それらで得たお金は当時では高価だったビデオテープ購入費用にせっせと消えてしまいましたね。

そういえば、高校何年生の時か失念してしまっていますが、夏休みに「プチ家出」をして一ヶ月近く東京に行ってしまったこともありました。アニメのスタジオ見学や漫画家先生との面会、東京のオタクサークルとの交流や、オタクイベントを回る日々のプチ家出でした。


2.同窓生へのメッセージ

皆さんの中には、ボクのことを全然記憶していない方もいるかもしれませんが、悪目立ちしていたことは、多分間違いありません(苦笑)。

なので、きっと「矢野っていうかなり変わったヤツがいたなー」と記憶している方々もいらっしゃるでしょう。そんな人間がいたな、というだけで構わないのです。それが後にたまたまメディアで目にするようになったということだけです。そして、相当にマニアックな方でなければ、本来のボクの仕事を知ること無く、メディアで最近見なくなったな、と思う方も多いでしょう。それはそれですよね。

じつは1994年末にボクはすべてのテレビ番組を強い意志で降板しています。ボクには時間を作る必要があったからです。それは次のような理由によります。

朝鮮語を学習して、1995年春、ピョンヤンに行ってしまったのです。もちろん日本と北朝鮮は国交がありませんから、直行便はなく、中国・北京経由でした。21世紀に入ってからもですが、何回か北朝鮮は取材で行っています。日本人拉致問題がクローズアップされるより、ずいぶん前のことです。

在日コリアンでもない日本人なのに、朝鮮語を駆使したため、強引な取材をすることが出来ました。あわてたのは北の当局でした。最終結果、スパイ容疑がかかって、平壌順安国際空港の特別室で数時間の尋問にあって、帰ってこられなくなりかけました。

まあ、無事に帰国して、その後は要注意人物になってしまったため、北朝鮮へは行くことが出来なくなってしまったのですが、同窓生で行きたい人がいたら片道切符でよければ手配します!

その後、韓国に最初に行った時は、北への渡航が問題となり、空港で事情を聞かれ、なかなかゲートを通れなかったですね(苦笑)。「取材目的だった」ということで現在では問題ありません。朝鮮語と韓国語は異なると言えば異なりますが(スペルも違うので)、まあ方言の違いのようなものです。ボクはその後ですが、大韓民国が主催した日本人韓国語弁論大会で優勝していますよ(笑い)。ソウル方言と釜山方言の違いなども分かります。韓流ブームやK-POPはまったく知りませんが、韓国ソウルなら地図もいらないくらいです。今でも手ぶらでホテルも決めずに、エアチケットの手配すらしないで、成田空港から適当に早い便に乗って、すぐ行ってしまったりしています。現在では浜松よりもソウルの地理のほうが詳しいと思います。

それから、ずっと歌手としての地道な活動をしています。歌声を披露した最も大きなステージは90年代だと六本木ベルファーレ、2000年代だと新木場ageHa。

そうした音楽へのアプローチの結果、数年前からは肩書きにDJが加わりました。その場合の一人ユニットネームは「宅八郎a.k.a.h.a.t.a.DJメカヤクザ」としています。ボクたちの年齢で、踊るCLUBに行かれている方は同窓生にいるかどうか分かりませんが、そうした現場仕事もあります。もっともボクはDJよりもリミキサーと言われる仕事のほうが専門です。コンピュータが好きなので(一人で複数マシンを使用していますが、メインにしているのはワークステーションと言われるサーバとしても使えるものです)、コンピュータ上で音楽を再構築する仕事です。同窓生でどなたかMacintoshユーザーの方がいらっしゃればお話ししてみたいです。

さて、過去のテレビ出演でしか「宅八郎」の存在を知らない同窓生も多いかと思いますが、ボクはボクなりに高校時代から相変わらず今もマトモではなくカタギではない生き方をしています。


3.今の自分を色に例えると何色?

マルチストライプ


4.プロフィール

1962年8月19日、浜松市生まれ。中沢幼稚園、和田小学校、天竜中学校を経て、静岡県立浜松南高校を卒業するまで浜松で生活。高校卒業後、法政大学社会学部に進学。その当時、「井の中の蛙」という言葉もあるから、変わり者扱いされている自分も東京に行けば、そうではないはずだと矢野少年は考えた。しかし、東京での大学生時代も変人扱いは続いてしまったため、ある程度自分の生き方を覚悟せざるを得なくなる。この頃からアルバイトで雑誌編集や執筆に関わる。

大学卒業後、テレビCM制作会社に勤務するも数ヶ月で退社。組織に向かないことを知る。その後はずっとフリーランス。ファッション分野で大手繊維メーカー東レの契約マーケティング研究部員だった時期もあり。

継続的にこなしていた執筆分野で、1990年、世界初の「オタク評論家」の肩書きのもと、ペンネームを「宅八郎」とする。この時期から、普段着はコム・デ・ギャルソン、ポール・スミスなのに、公式衣装は中野ブロードウェイで買ったサファリジャッケットと古着のベルボトムジーンズに着替える毎日が続く。眼鏡も普段はアラン・ミクリだが、公式には銀縁眼鏡(ただし、実はヴィヴィアン・ウェストウッドの銀縁)。そして出版だけでなく電波メディアにも進出、元来は執筆者、編集者であったが、数年間タレント的なメディア出演をこなす。そして現在までのオタク文化の基礎を築き上げた伝説がある。

各界の著名な人物「神」との対談や親交について。

麻原彰晃、上祐史浩らオウム真理教幹部との対談。パリ人肉殺人事件の佐川一政との焼肉対談。ミュージシャン・電気グルーヴ、作家・鶴見済、作家・町田康との対談、テイ・トウワ(TEI TOWA)へのデビュー前国際電話初インタビュー。美術家・村上隆との共同作業。映画監督・実相寺昭雄から単独インタビューで『ウルトラセブン』欠番12話問題についての発言を生前引き出す。

さらに、マンガ家・荒木飛呂彦やミュージシャン・小山田圭吾(フリッパーズ・ギター、Corneliius)などとの親交が深い。本多勝一(朝日新聞記者を経てジャーナリスト)、安部譲二(元極道の作家)との年齢を超えた親交、田代まさしとの交流なども知られる。荒木については作品『ジョジョの奇妙な冒険』への独自の概念の提唱や、スタンドなどのアイディア提供なども行った。

その後、新宿歌舞伎町ホスト、秋葉原萌えビジネスのディレクションなど、常に次にやることはすべて未定。未定は予定にあらず(常に方向性は、あさっての方向)。2007年統一地方選挙、東京都渋谷区長選に出馬するも落選。現在では、執筆業に加えて韓国語翻訳、デザイン、プランナー、音楽家など、職業があまりにも複雑系に。人から説明を求められると面倒なので「無職です」と答えることにしている。  


Posted by 第45回【波濤に集う】実行委員会 at 19:51Comments(6)宅八郎